もんし録

mons&hero 特撮について書きます

仮面ライダーBLACKとは何だったのか?(考察)

先日TAMASHII Labから「サタンサーベル」の予約が開始された。

欲しい。

BLACKとしては周年ではないのにも関わらず凄まじい人気である。

事実としてBLACKが仮面ライダーの代表格であることには間違いない。

それには昭和と平成の狭間の時期を生きた唯一無二感もあるし、純粋なキャラクター人気もあるだろう。

今回はそんな絶妙な時代を生きた仮面ライダーBLACKの歴史的な意味合いに迫りたい。

追記:まさかの50年周年企画で『BLACK』のリブート作品『仮面ライダーBLACK SUN』が発表された。放送は2022年春。楽しみすぎる。

 仮面ライダーBLACKの歴史的意義

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基礎情報

仮面ライダーBLACK』は1987年10月から放送が開始した、シリーズ9作品目の仮面ライダーである(人数的には11人目)。劇場版も2作製作され、続編として『仮面ライダーBLACK RX』も放送された。

あらすじをまとめると、仮面ライダーに改造された南光太郎ゴルゴムの壊滅と信彦の救出に向けて戦う物語である。そして、信彦もまた、光太郎同様シャドームーンに改造されて洗脳も受けており、親友であった2人が戦う運命となってしまう悲劇性がドラマの魅力である。

BLACKの「私」的な物語

仮面ライダー50年のヒーロー像を振り返る記事と重複するが、

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 『BLACK』が仮面ライダーに起こしたパラダイムシフトは「私」的な物語を縦軸に導入した点にあると思う。

それまでの昭和ライダーではたとえ「復讐」であっても個人的な物語を戦いに持ち込むことはタブーであった。しかし光太郎は悪の手先となった親友の救出をゴールとして掲げて戦いに臨む。

80年代後半~90年代前半は東映ヒーロー番組が戦士たちの「私」的な物語を厚く描き始めた時代だった。その意味で『BLACK』はポスト・スピルバンやポスト・マスクマンとも言えるし、プレ・ライブマン、プレ・ジェットマンとも言える。これは現在のヒーローの物語では当たり前の要素であり、『魔進戦隊キラメイジャー』や『仮面ライダーゼロワン』はヒーローの「私」的な物語を肯定する発展系である。

縦軸としてのシャドームーン

『BLACK』を語る上でシャドームーンは欠かせないだろう。上記に書いた光太郎の「私的な物語」の争点はシャドームーン=秋月信彦なのである。ブラック・サンと同義の存在であり、戦いを宿命づけられた重要度において、ハカイダーを原点とするアポロガイストやジェネラル・シャドウ、シルバなどの東映ダークヒーローとは一線を画す。

ビジュアルも仮面ライダー然としており、ダークライダーの先駆けといっても過言ではないだろう。(ただ、今書籍なので仮面ライダーカウントされることには、まだモヤっとする)また、光太郎にとってシャドームーンを勝利することはゴルゴム壊滅に近づくと同時に、創世王を選ぶ「ゴルゴムのシステム」に自ら参加してしまうことにもなる。これも平成ライダーに同様の構造を見ることができるが、ヒーローを苦しめるシステムの構築もまた、シャドームーンの歴史的意義である。

まとめ

ヒーローの「私」的な物語と、悲劇を生み出すダークヒーロー。それらは『RX』では失われてしまったものの、平成仮面ライダーの礎となっていることは確かだろう。現に平成ライダーのスタッフも既にここで参加を始めている。

追記:このような平成ライダーの原点とも言える『BLACK』がリブートされる『BLACK SUN』。どのように現代的アップデートがなされるのか?令和のBLACKに期待である。

 

【仮面ライダー50周年記念】ヒーロー像の系譜(2019ー2020)

令和仮面ライダーの時代(2019~2020)

自己実現としての仮面ライダー

 令和の時代に突入。『魔進戦隊キラメイジャー』ではメンバーが社会的な自己実現を優先できるシステムとしての「戦隊」が描かれた。

 

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 どんな「私」も肯定する時代。仮面ライダーもまた、社会的自己実現を果たすことを目的に戦う仮面ライダーが現れた。キラメイジャーの記事で触れているが、社会的な自己実現は「私」物語の最終形態である。

仮面ライダーゼロワン/飛電或人はAIテクノロジー企業「飛電インテリジェンス」の若き社長である。そんな彼が物語を通して、成し遂げようとするのは「人間とヒューマギアがともに笑える社会」の実現である。それは或人にとっての自己実現であり、仮面ライダーであっても否定されることのない夢なのだ。

誰もがヒーローになれる時代へ

「人間であれ、ヒューマギアであれ、心の自由は尊重されなくてはならない。互いの垣根を越えて自由のために戦う限り、お前たちは仮面ライダーだ」

 ゼロワン最終回ではテロリストですら用いた”仮面ライダー”の称号をヒーローとして再び再定義する。そこに変身の有無は問わず自由のために戦う者は皆ヒーローになれるというメッセージが含まれていた。

最新作『仮面ライダーセイバー』でも同様のヒーロー像が提示される。

昔は強いヒーローがいればよかった。

でも今は悩み、苦しみ、それを乗り越えて強くなれば、誰もがヒーローになれる時代だ。

 これは1000年の時を越えて人間の世界に来たユーリが飛羽真/セイバーと行動をともにすることで悟った現代のヒーロー像である。今はどんな形であれ「私」の課題を乗り越えれば、誰でもヒーローとなれる時代なのだ。

飛羽真はそんな時代を生きる仮面ライダーである。彼の「世界=皆を救う」というこだわりはある時代では不可能だとされた。『セイバー』が今後どんな道をたどり、仮面ライダーシリーズがどのような ヒーロー像を切り拓いていくのか、期待したい。

 

改めて仮面ライダー50周年おめでとうございます!!

【仮面ライダー50周年記念】ヒーロー像の系譜(2009ー2018)

平成仮面ライダー2期(2009~2010)

2010年代にヒーローは成り立つか

『ディケイド』が終わり『ダブル』から『ジオウ』までの作品は平成2期と呼ばれる。

平成1期では、仮面ライダーのヒーロー像を相対化し、「仮面ライダー=ヒーロー=正義」の図式を崩した。また、後年ではヒーロー像を発展、多岐化させることで仮面ライダーの称号を再びヒーローとして再生させる動きもみられた。

平成2期は、仮面ライダーをこの時代(2010年代)のヒーローとして、平成1期の時代よりも意識的に成立させようとする。

ミニマムな領域の仮面ライダー

『ダブル』では『電王』で言及した「ミニマムな範囲でこそ成立するヒーロー像」の発展を見ることができる。コミットするフィールドを手の届く自分の街・「風都」に限定し、皆を守るヒーローを成立させている。そして「Nobody is perfect」という概念も重要だ。彼らは一人だけではダブルになることは出来ない。相棒の存在、そして彼らを「街の希望」として認めてくれる市民がいてこそ、仮面ライダーダブルというヒーローになることが出来るのだ。この補い合いで完成するヒーロー像は、その後の仮面ライダーにもよく見られる。

『オーズ』も「ミニマムな範囲こそ成立するヒーロー像」の典型である。映司が欲した世界のどこまでも届く手は、「皆と手を繋ぐこと」でこと手に入るものであると悟る。ダブル同様の一人のヒーローの不可能性も示しつつ、誰にも頼らず「私」を捨て続ける自己犠牲が必ずしも肯定されるものではないテーマも提示している。

『フォーゼ』も『ダブル』、『オーズ』の流れを汲んでいる。本作ではフィールドを高校にまで縮小し、仲間との絆で「仮面ライダー」を再現せんとした。だからこそ、仮面ライダー部との関係をきずくことでフォーゼは新たな姿を獲得する。

震災後の仮面ライダー

震災後の仮面ライダーである点も『フォーゼ』のヒーロー像を語る上で欠かせない。涙ラインのないフォーゼが目指した「明るい仮面ライダー」は学園のヒーローとして、生徒たちに受け入れられる存在として活躍した。それは「天高生徒全員と友達になる」弦太郎/フォーゼの「私」が叶うことを表していた。

 

震災後のヒーロー像の提示は『ウィザード』以降、多くの仮面ライダーで見られる。劇中でも大きな災厄の後を生きる人々や仮面ライダーを描く作品も増えた。(『ウィザード』のサバトや、『ドライブ』のグローバルフリーズ、『エグゼイド』のゼロデイ、『ゼロワン』のデイブレイクなど。)

『ウィザード』ではウィザード/晴人のヒーロー像は、震災後が意識された「今を受け入れて前に進む」というものだった。絶望して立ち止まることなく、前に進み続ける姿勢はその後の仮面ライダーにも踏襲されるものになる。

『鎧武』でも鎧武/紘汰がライバル・戒斗から認められたのは「泣きながら進む」という心の強さだった。自然災害や大人、社会のシステムなどあらゆる理不尽の壁が何度も紘汰に立ちふさがった。しかし、紘汰は友を失っていたとしても前に進み、犠牲を諦めない茨の道を進み続けた。

「前に進む」ヒーロー像のモチーフは『ドライブ』にも見られる。トラウマで止まっていた心のエンジンを再起動させて走り出すことからドライブの物語はスタートする。また、ドライブ/泊進之介は警察官という職業倫理を持つ仮面ライダーでもある。そこに、力を行使する権限=命を守る責任を全うするヒーロー像の提示も見受けられた。

ヒーローであろうとするヒーロー

2010年代後半の平成2期作品では、「ヒーロー」が重要な意味を持つキーワードとして頻繁に用いられた。理想とするヒーロー像に自らの近づけようとする仮面ライダーたちの物語が描かれている。仮面ライダーとして戦うことが自己実現(「私」)を果たすことにも繋がっていく時代である。

 『ゴースト』では、ヒーローは「英雄」として表現された。その偉人たちのヒーロー像は、タケル/ゴーストのモットーでもある「命を燃やして生きる」。タケルは、自分の命を顧みず誰かを助け、その想いを未来に繋いだ。そしてタケルは自身が憧れる英雄と肩を並べる英雄となったのである。

『エグゼイド』の中で宝生永夢は過去の経験から、「患者の笑顔を取り戻す医者」こそがヒーローという価値観を持っている。それは彼の職業倫理にも繋がり、CRのドクターとして命を救う責任を果たそうとする姿が描かれた。

『ビルド』は平成2期の仮面ライダーを集約したようなヒーロー像であった。桐生戦兎がそうであるように「ヒーローはそれを認識する人々が創りあげる」存在であるという理念が作品の前提としてある。皆に希望を託されてこそ兵器ではなくヒーローになれるのだ。

理想を掲げて何が悪い!ラブ&ピースがこの現実でどれだけ弱く脆い言葉かなんて分かっている。それでも謳うんだ。愛と平和は俺がもたらすものじゃない。一人一人がその思いを胸に生きていける世界を創る・・・。そのために俺は戦う!

このように、ビルド/戦兎は一人のヒーローの限界も知っている。だからこそ、誰もが愛と平和を胸に生きていける世界を目指してにビルドは戦ったのだ。

『ジオウ』の場合、ヒーローは”王”という言葉で置き換えられた。常磐ソウゴ/ジオウが目指す「最高最善の魔王」が作中にとっての理想のヒーロー像だ。しかし、劇中で「最高最善の魔王」とは何たるか?が具体的に語られることはない。何故ならそれは誰にも分からないソウゴの未来であり、「瞬間瞬間を必死に生きる」姿こそが仮面ライダーだからである。

自分にとっての「在りたい姿(=理想のヒーロー像)」で在ろうとするために仮面ライダーを選ぶ。そんな「私」の自己認識・自己実現としての仮面ライダーが肯定される時代。それは直接、令和に繋がっていく。

 

【仮面ライダー生誕50周年記念】ヒーロー像の系譜(2004ー2009)

平成仮面ライダー1期②(2004~2009)

仮面ライダーの称号の再生

2000年代初頭はヒーローの価値が相対化される時代ではあった。しかし、その後の『剣』や『響鬼』では再びヒーローとしての仮面ライダーを再生しようとする。

『剣』のブレイド/剣崎一真は職業ライダーであり、G3と同じく人間を守る行いが責任のある仕事として設定されている。また、同時に彼の戦う理由は人類愛である。

そこには仮面ライダーの資格(かつての「誰かを守るヒーロー像」)に「公私」をもって近づこうとする行為が示される。そして、旧来のライダーたちのような究極の自己犠牲を払うことによって剣崎の物語は完結するのだ。

職業ライダーの設定は『響鬼』も同様である。さらに、響鬼のライダーたちは魔化魍という地震や台風のような天災の分類と戦うため、ヒーローと暴力という問題からは一度解放される。そこにあるのは、シンプルな「人を助けて生きる」ヒーロー像である。

「ぼくたちにはヒーローがいる」。それは機械が苦手なおじさんかも知れないのだ。

2006年『カブト』にはヒーローの価値の破壊と再生の時代を象徴した作品像があったのかもしれない。

『カブト』は「俺は世界の中心」「正義とは俺自身」と語る仮面ライダーが主人公だった。ヒーローの価値が相対化された時代で、絶対性を自称する天道総司は異色であった。彼の戦い方や立ち振る舞いはまさに最強であり、その言葉は説得力を持っていく。しかし、彼もまた「私」のモチベーションを基盤とした人物の一人であった。

他者の為に自分を変えられるのが人間だ。自分の為に世界を変えるんじゃない…自分が変われば世界が変わる!…それが天の道。

「天の道」こそが『カブト』のヒーロー像を示していたと言える。それは揺るぎない意志を天道に授けながら、誰かの為に自分を変えることも肯定した価値観である。”絶対的な「私」を持つことと誰かの為に生きていくことは両立しうる”そんなヒーロー像が形成されている。

精神性へのフォーカス

ヒーローは力や存在そのものではなく、内面を在り方を表している。これもまた当たり前な前提であるかもしれない。しかし、天道やヒビキさんのように強くなかったとしたら、ヒーローは成立するのだろうか。

『電王』や『キバ』はその内面性を深堀した作品といえるだろう。

『カブト』と対照的に電王は「最弱」と謳われた仮面ライダーであった。

電王/野上良太郎は不運や貧弱な性質がくり返し描写された。しかし、彼は自らの意思でイマジンたちを制御し、時には「時の運行」のルールも曲げてでも、人情的な人助けを優先する。

「やらなきゃいけないと思ったらやるよ。これからも。人助けとかそんなんじゃなくて、できることがあったらやるだけなんだ。僕が電王になったときみたいに・・・。弱かったり、運が悪かったり、何も知らないとしても、それは何もやらない事の言い訳にならない。」

世界や時間という大きな何かではなく、自分の手の届く範囲の世界で出来ることをする。そんなミニマムな領域でもヒーローが成立することも示している。逆に言えば、限定的な範囲でしかヒーローは成立し得ないのかもしれない。

『キバ』はそんなミニマムな世界で紅渡が意志(私)を獲得する物語だった。ここで「私」はアイデンティティとも言い換えられる。アマゾンレベルに社会性が皆無だった渡が様々な出会いや経験を通して自分の生き方を見つけていく。成長しながらアイデンティティを模索する行為もまたヒーローになり得るのだ。

仮面ライダーというヒーロー像の破壊と再生を経てたどり着くのは『ディケイド』だ。9人のライダーの姿に変身できるディケイドだが、それはそれぞれで提示されたヒーロー像を受け継ぐことを意味しない。彼もまた、使命から逸脱してアイデンティティを模索するヒーローの一人だった。ディケイドについては過去記事で取り上げている。

 

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【仮面ライダー生誕50周年】ヒーロー像の系譜(2000ー2003)

平成仮面ライダー1期(2000~2003)

仮面ライダーの相対化

平成仮面ライダーのヒーロー像が一口に語れないことは言うまでもない。それぞれの作品が別々の価値観を提示し続けた20年間であったとも表現することができる。

平成ライダーの初頭は「仮面ライダー」というヒーロー像を相対化し、捉え返した時代であった。もはや栄光の7人ライダーのような、私を捨て去り、正義の化身となって世界を守る戦いに全てをコミットするヒーロー像は見られず、「私」がある人間であることを前提に、その内面性が焦点となっている。

そして、「仮面ライダー=ヒーロー=正義」の図式が尽く崩されていく。

暴力の否定

まず、クウガ』では怪人を暴力で倒す正当性が否定された。守るための戦いであっても、暴力という手段はあってはならないものとして扱われる。

 『クウガ』において提示される新世代のヒーロー像は五代雄介の内面そのものである。

それは、”いつでも誰かの笑顔のために頑張れる”というものだ。

”いつも僕らを守ってくれる”とはニュアンスが異なり、正義の化身ではない。

「頑張れる」というと簡単だが、五代は究極の自己犠牲(「私」の犠牲)の人だ。五代の犠牲とは冒険に行けなかったり、人間の肉体でなくなったりと様々だが、根幹は嫌なこと=「暴力」をやらなければならないことである。それをする度に、彼の「私」の象徴である笑顔は失われていく。しかし、五代は「何故自分がこんなことを?」という方向では絶対に悩まない。誰かの笑顔のために自分に出来ることならやる、やりたい。その行動規範もまた、五代の「私」なのである。それは劇中でも「何でだよってくらい良い奴」と評されるほど綺麗事であり、それが出来る大人は少ない。だからこそ、目指すべき人間像、ヒーロー像なのだ。

また、『クウガ』において、グロンギは絶対悪で倒すべき敵だが、だからといって怪人をやっつけてくれるクウガが正義というわけではない。そこに介在する暴力は否定されるべき行いなのである。クウガはヒーローかもしれないが、存在してはいけない。誰かの笑顔のために頑張る精神性こそが讃えられるべきものなのだ。この視点は昭和ライダーやネオライダーたちのヒーロー像にはない。仮面ライダーがヒーローとしての「正義の力」という概念を失ったタイミングと言えるかもしれない。

そこに、「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」や「正義の心を持つ「私」を内在した一人の若者」は成立しないのである。

 

一つの理想像の消失

『アギト』以降、仮面ライダーは複数登場することが当たり前となり、ヒーロー像も多様なものとなった。そこでは当然クウガ』のような一つの理想像は存在しえないものとなる。

例えば、G3は初めて職業として活動を行う仮面ライダーであった。氷川誠は警察官である。正義感の強い優れた警察官であるが、仮面ライダーを行うことには給与が発生し、生活((私))が保証されている。そこには従来のライダーが強いられた犠牲はなく、責任がある。命懸けで責任を全うするG3、そこにも新たなヒーロー像がある。

ギルスは逆境から這い上がり、自己(新たな「私」)を模索する仮面ライダーだった。力に苦悩し続け、自分と身の回りのために戦っていたが、そこにも確かなヒーロー像がある。

そして、アギト/津上翔一はそんな自己と他者(アギトと人間)の属性を包括し、皆の居場所を守る仮面ライダーだった。

一つの正義、一つの理想が失われたとき、ヒーロー像は個人(私)に宿り、どれもが両立して越境できるものとして扱われる。

仮面ライダー≠ヒーローの時代

龍騎』では仮面ライダーとヒーローをイコールで結ぶ前提すら揺るがされた。

ミラーライダーたちはバトルロイヤルを通し、他者の命を犠牲にして、自分の願い(私)を叶えようとしていた。自分のためだけに戦う仮面ライダーはヒーローと言えるのだろうか。そんな疑問が沸き起こる中で、人を守るために戦い、ライダー同士の戦いを止めようとした龍騎/城戸真司はヒーローらしく見える。しかし、『龍騎』は城戸真司を正義のヒーローの理想像として定義することはない。

この戦いに正義はない。あるのは純粋な願いだけである。

エゴ(私)を叶えるべく戦う中で、龍騎、ナイト、ゾルダ、王蛇たちは同列の存在として並ぶ。その意味で「人間は皆ライダー」であり、「特定のヒーロー像を提示する」行為は幻想であり、何をヒーローだと選択するかはこちらに委ねられた。

ファイズ』では、仮面ライダーのツール化が進み、特定の個人に紐づくものですらなくなる。ファイズ、カイザ、デルタは何人もの変身者が存在する。仮面ライダーは単なる「力」でしかなく、その力には「アギトの力」や『龍騎』同様、善も悪もない。ファイズが救世主と呼ばれたのは仮面ライダーだからではないのだ。

ヒーローがいるとすればそれは”仮面ライダーだから”ではないし、正義が不在の中で絶対的なヒーロー像は幻想である。

【仮面ライダー生誕50周年】ヒーロー像の変遷(1979ー1994)

仮面ライダーと「私」の物語(1979年~1994年)

「私的な物語」の芽生え

V3/風見志郎の家族は殺され、X/神敬介の父は自爆、ストロンガー/城茂の相棒・タックル/岬ユリコは2人の未来を提示した直後に絶命した。ライダーマン/結城丈二は「復讐」ではなく大義のために命を落として初めて仮面ライダーの認定を受けた。

このような「仮面ライダーは「私」的な要素を切り離さなければならない」というストイックさが緩んでいくのは1980年代を迎えたスカイライダーの終盤からのように思う。

スカイライダー/筑波洋は物語の終盤、生きているかもしれない両親を助けるために行動する。結局それは叶わないものの、仮面ライダーが私的なモチベーションを重視する展開は新鮮に写る。そして、『スーパー1』では、スーパー1/沖一也は「望み、望まれ」生まれた改造人間であり、ラストでは惑星開発という本来の夢に向かう。これもまた、仮面ライダー自己実現が許される転換であると言える。ただし、どちらの作品もその「私」的な物語が作中に横たわっているテーマとは言えない。『スーパー1』でさえ、縦軸として惑星開発の話が常に意識されているかといえば、そうでもないのが実態である。

BLACKを貫く「私」的な物語

「私」的な物語を抱えつつ戦い続ける仮面ライダーを描いたのは『BLACK』からだろう。

『BLACK』は「仮面ライダーになってから敵組織を滅ぼすまで」だった仮面ライダーの物語に新たな線を引いた。それはBLACK/南光太郎が「親友を救おうとする」私的な物語の縦軸である。光太郎にとって、宿敵シャドームーンを倒してしまうことはバッドエンドなのだ。彼の苦悩はドラマになり、仮面ライダーのヒーロー像を純粋な「憧れ」だけではなく、等身大の「共感」を抱かせるかたちへと変えた。勿論、このヒーロー像は1987年の『BLACK』が生み出したものでも何でもない。東映ヒーローに限定しても、戦隊では『超新星フラッシュマン』(1986年)、『光戦隊マスクマン』(1987年)が「私的な物語」の縦軸を展開しており、メタルヒーローでは『時空戦士スピルバン』(1986年)や『超人機メタルダー』(1987年)にそのムードを感じる。この直後に「友よ。君たちはなぜ悪魔に魂を売ったのか?」の『超獣戦隊ライブマン』(1988年)につながるし、その先には『鳥人戦隊ジェットマン』(1991年)が待っている。

「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」から、「正義の力を持つ「私」を内在した一人の若者」へヒーローのあり方は移り変わっていく。一人の若者が正義の力を持てるのか?そもそも正義とはなんぞや?という問題提起が発生しないギリギリの時代のヒーロー像も言えるかもしれない。ただ、『RX』になり、シャドームーンの縦軸がなくなると、フォームチェンジや武装の新しさは加えつつも、ヒーロー像としては「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」立ち返っている。

ネオライダーと「私」の物語

この観点でみると、『真』(1992年)のシン/風祭真は世界や正義のためではなく、純粋な「私」で戦う最初の仮面ライダーであった。劇中でシンは振りかかる火の粉を払うためか、恋人の願いを叶えるためにしか戦っていない。そして、ラストでは父や恋人を殺されながらも「私」の象徴ともいえる”子ども”が残る。ポスト・BLACKやポスト・ジェットマンの発展とも言えるが、シンが所謂ヒーローとして描かれることはなく、仮面ライダーの称号(力)が正義のヒーローと必ずしも結びつかない可能性が初めて提示されている。

その点『ZO』、『J』は子ども向けということもあり、バランスがとられている。基本的にはRX同様「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」にも見えるが、関係値がある一人の少年少女の救出を中心に据えることによって、「私」があるヒーロー像が並立している。

そして、テレビ放送はなく90年代が終わった。

2000年、『クウガ』から平成仮面ライダーの時代に突入する。

仮面ライダーのヒーロー像は大きく揺れ動いていく。

【仮面ライダー生誕50周年】ヒーロー像の変遷(1971~1975)

栄光の7人ライダー(1971~1975)

仮面ライダーは孤独なヒーローか?

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仮面ライダーは異形の哀しみを背負った孤独なヒーローである」

哀しみと孤独。これは昭和ライダーが語られるとき、よくフォーカスされるテーマだ。彼らは改造人間ゆえの孤独を背負っており、怒りと哀しみを胸に「人間の自由」のために悪と戦ってくれる。そんな哀愁が魅力である、という言説だ。何も間違いはない。私も「ロンリー仮面ライダー」を聴きながら、悦に入るファンの一人だろうか。

しかし、実態は本当にそうだろうか。

昭和の仮面ライダーの本編を見ると、「異形の哀しみ」や「孤独」というキーワードが全てではないことは一目瞭然である。勿論それを感じるエピソードはあるものの、全体として見れば「明るく楽しいアクション活劇」が毎週描かれているのだ。逆に言えば、おやっさんやヒロインたち理解者や「少年仮面ライダー隊」のようなファンクラブまでも存在しており、真に孤独と感じる場面はもはや少ない。それらを踏まえれば、昭和ライダーでプレゼンされていたヒーロー像は、「僕らを守ってくれる頼もしい正義のヒーロー」がベースにあり、「哀しみ」や「孤独」は個性でありエッセンスだ。

当たり前な結論かもしれないが、ここは押さえておきたい。

なぜなら、「僕らを守ってくれる頼もしい正義のヒーロー」は今はもう大手を振って描けないものとなり、この時代ならではのものだからだ。

70年代「正義のヒーロー」に求められたもの

「僕らを守ってくれる頼もしい正義のヒーロー」。あえて「正義」という言葉を使った。それは、この時代の特徴を示す意味だけではなく、少なくとも昭和ライダーの作中での正義と悪はハッキリと分かれているからである。「ショッカーを倒すことは正しいことである」理論で、それを行ってくれる仮面ライダーが正義で怪人は悪である二項対立は揺るがない。怪人(改造人間)は被害者であることは前提にしつつも、怪人となってしまえば悪であり、倒すべき敵なのである。そこにヒーローが暴力を使うことに対する疑問視は見られない。この時代誰かのために戦うことは正しい行いなのだ。

しかし、皆の憧れの象徴となり、正義を背負って戦うヒーローには究極の自己犠牲が求められる。

ライダーマン以外の栄光の7人ライダーは「私」を完全に否定された存在と言える。天涯孤独か両親が殺される展開から始まり、異性と交わることもなく、戦いが終われば、次の戦いに向け仲間たちから去っていく。当然、社会的な自己実現を叶えることもなく、共に戦う仲間と信頼関係を築く以外の人間的行いは許されていない。しかも戦いが終って仲間との新たな人生を歩むことも出来ず、そのコミュニティからは姿を消してしまうのだ。

それが特に顕著と言えるのは「復讐」という「私」的なモチベーションですら御法度となっている点だ。

最初にはそれがあっても、捨てるべき価値観として後輩に指導するシーンすらある。「正義」の権化となるには「私」的な存在であってはいけない。70年代のストイックなヒーロー像が読み取れる。だからこそ、私的な物語で動くライダーマンは異色であり、ストーリーの縦軸を発生させることが出来る存在なのだ。ただ、ライダーマンの「私」の性質も、最期には否定されるものとなる。また、社会性(私的な物語)がゼロ状態からスタートしたアマゾンが唯一、言語を習得し、「社会化」を果たしているのは面白い。