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【ディケイドVSジオウ考察】門矢士の旅はなぜ終わったのか?

「RIDER TIME 仮面ライダーディケイド VS ジオウ -ディケイド館のデス・ゲーム-」と「RIDER TIME 仮面ライダージオウ VS ディケイド ~7人のジオウ!~の総括・考察記事です。

目次

 

まえがき:「門矢士の死」が表すこと

「終わる・・・ようやく、俺の旅が・・・」

『7人のジオウ!』最終話より門矢士の台詞

またもや門矢士=仮面ライダーディケイドは難題を残して去って行きました。今回の「RIDER TIME」は、本編が終了してから10年以上続く「ディケイドの旅の終焉」を描いた作品です。井上正大さんが配信前にそれに言及してから大体予想はついていましたが、大きな疑問符が付く展開に波乱が巻き起こりました。

•旅はなぜ終わったのか?

•なぜこのタイミングだったのか?

やはりこれだけは答えを出しておきたい、そうでなければ平成を終われない。そんな動機から試みた考察です。もはやディケイド全体の総括になっています。

先に結論めいたことを言えば、「士の死」は「ディケイドの役割」のフェーズが移行する通過儀礼であると考えています。そもそも士の消滅は一度『MOVIE大戦2010』で既に描かれており、今回の『7人のジオウ!』で2度目の描写です。この「ディケイドの役割」や「士の死」が、それぞれどのような意味合いを持っていたのかに焦点を合わせ、士の旅の終わりについて探っていきます。

便宜上、『ディケイド』1話本編から『MOVIE大戦2010』でキバーラに倒されるまでを「フェーズ1」、『MOVIE大戦2010』で復活してから『7人のジオウ!』でオーマジオウに倒されるまでを「フェーズ2」と呼ぶこととします。

ディケイドに託された本来の役割

はじめに、フェーズ1の仮面ライダーディケイド(=門矢士)の役割からみていきます。

『ディケイド』本編の前半は、「9つの世界を巡って仮面ライダーと出会い、「ライダーカード」を媒介としてその力を手に入れていく」形式で進んで行きました。ここには仮面ライダーを記録し、自らに現像・映写していく「カメラ」の機能が見て取れます。それは、バラバラで「混沌化」したライダーを「ライダーカード」というフォーマットに「名前をつけて保存」を施し「秩序化」する機能と言い換えることができるでしょう。

『ディケイド』の紅渡は、その作業を「破壊」と表現していたのだと考えています。つまり、「フェーズ1」にて紅渡から託された士の役割は「秩序化(=混沌のリセット)」によって世界の輪郭を取り戻し、アイデンティティを再固定することという解釈です。

しかし、「ディケイド」と「秩序」をイコールで結ぶと違和感を覚える方も多いと思います。その理由は後述しますが、ここで一旦ディケイドに破壊を託した紅渡について触れておきたいと思います。

紅渡の正体とは?

ここで一旦、ディケイドの物語の前提について立ち戻ります。

まず、本ブログでは『ディケイド』の紅渡は『仮面ライダーキバ』の紅渡とは異なる存在かつ、「パラレルワールドの渡」でもない全く別質な存在であると考えています。付随して、『仮面ライダーキバ』の世界とワタルがいる「キバの世界」も同じレイヤー(同価値)のパラレルワールドではないとも解釈しています。

それは、『ディケイド』の紅渡が、門矢士及びA.R.WORLDの創造主(以後、「大いなる意思」と呼ぶ)であると仮説を立てているからです。この紅渡は人物ではなく、「大いなる意思」の一つの人格。そして、「大いなる意志」のアイコンとして、紅渡の姿があり、剣崎一真の姿があるのではないかと考えています。(ここで「大いなる意志」=東映と切り捨てることはしません)

一度仮説を補足して整理するとこうなります。

「大いなる意思」とは『仮面ライダークウガ』から『キバ』までの物語から生まれた概念的存在であり、それぞれの世界からA.R.WORLD=「箱庭」を創造した。その目的は、門矢士によって「秩序化」させた結果を大元の物語にフィードバックさせることである。

これは『MOVIE大戦』で紅渡が士を倒した夏海に語った内容と概ね合致していると思います。

ここから考えると、門矢士が「物語がない存在」と語られたのは、「大いなる意思」が生み出した「傀儡」であるから、という理屈が読み解けます。彼は機能を果たすためだけの装置であり、キャラクターとしてのバックボーンは本来なかったのです。

さらに「大いなる意思」は、「破壊」作業の活性化の目的で、別の「駒」を用意します。それが、「破壊の観測者」=光夏海、「破壊に反する意思」=鳴滝、「世界のアイデンティティ(=お宝)を発掘するトリックスター」=海東大樹です。本来は、それぞれが「破壊者」=門矢士の作業を進めるための駒すぎず、生まれ持った物語のない存在として設定されていました。

こんな前提でスタートしたディケイドの秩序化の旅。その実態はどうだったでしょうか。

秩序と混沌の両義性

世界の輪郭が揺らぎ、アイデンティティが崩壊することを「混沌」と表現するなら、ディケイドの旅は「秩序化(=混沌のリセット)」とは言えないものでした。「クウガの世界」のユウスケは「キバの世界」のワタルの友人となり、「龍騎の世界」の鎌田の正体は「剣の世界」のパラドキサアンデッドだという始末です。ある世界が別の世界に関与し、相互的な関係となっていく様子はまさに「混沌」そのもの。世界を繋ぐディケイドの旅は「混沌」の性質があるのです。

「秩序」と「混沌」の中心にはもちろん門矢士の存在があります。彼は旅の中で、託された役割をこなしつつ、欠落したアイデンティティを求めていくのです。同フォーマットに綺麗に整理されたライダーカードと歪み澱んだ士の写真の対比が増えていくたび、その乖離は大きくなります。

大きな転換期となるのは「ネガの世界」。士は役割の範疇であった「9つの世界」を逸脱して旅を続ける意志を示し、旅の目的は「アイデンティティ探し」へと完全に舵を切ることになります。しかし、前項で言及したとおり士に物語はそもそも用意されていません。

そこで、世界の輪郭(アイデンティティ)を再構築してきたディケイドの力が、無意識的に士自身に機能します。つまり、ディケイドは彼自身を始め、大いなる意思に生み出された「駒」たちを一気に物語化していくのです。「ネガの世界」や「ディエンドの世界」では夏海、海東が過去や物語が肉付けされていきます。また、「箱庭」を移動する手段であった「異世界移動」は「シンケンジャーの世界」へのワープを果たすことによって、文字通りの「異世界移動」の意味合いが与えられました。

重要なのは、士がこの過程で「大いなる意思によって生み出された”傀儡”が、自らの意志で離脱しアイデンティティを求めていく」という仮面ライダー性を獲得している点です。言うなれば初代(昭和)ライダーの価値観と接続したディケイドの敵は「大ショッカー」として出現し、「BLACK/RXの世界」、「アマゾンの世界」へとつながっていきます。そして、「世界の融合」というキーワードすら、大ショッカーの作戦という物語が与えられていくのです。

夏映画では遂に士自信が物語化し、大ショッカー首領の過去が付与されます。その役割を放棄し再起するドラマは、先ほどの「大いなる意思によって生み出された”傀儡”が、自らの意志で離脱しアイデンティティを求めていく」構造の物語化を帯びた再演とも言えるでしょう。

『ディケイド』の設定や時系列に辻褄が合わないのは、それぞれのパーツを輪郭から急速に物語化した際の副作用だと考えています。そして、ディケイドの強引な物語化で増幅した「混沌」の産物、それが「ライダー大戦の世界」です。

一度目の旅の終わり

A.R.WORLDが大きく歪められた「ライダー大戦の世界」で再び「大いなる意思」が剣崎一真の姿で現れます。大ショッカーを倒しても、「大ショッカーが世界融合の元凶」のストーリー自体が、ディケイドが物語化の一環で生み出したものであるため、「混沌」の解決にはなりません。役割を逸脱し、「混沌」を増幅したディケイドが元凶であることは間違いないのです。

そして、ディケイドと「大いなる意思」の対決は『MOVIE大戦2010』になだれ込みます。

その中で士は岬ユリコを通し、本来の役割と出会い直しを果たすことになります。岬ユリコは誰も認識してくれなかった「アイデンティティの欠落」を背負ったキャラクター。士は彼女への感情から、ライダーを記録・保存し、アイデンティティを確保する「秩序化」の重要性を再認識するのです。ここで現れた「出会った者を忘れない」スタンスは、その後の士の重要な行動理念となります。そして、全てのライダーを記録したあと、「観測者」である光夏海に引導を渡され、「フェーズ1」の役割は満了します。ディケイドの1度目の消滅です。

新たなディケイドの役割とは?

士は世界と物語を繋ぐ旅をディケイドの物語として、「大いなる意思」から解き放たれた道を歩み始めます。しかし同時に、ライダーを記憶する自らの機能の重要性は忘れてはいません。

「全てを破壊し(=秩序)、全てを繋ぐ(=混沌)」仮面ライダー像はここで完成したといっても良いかもしれません。

そんな秩序と混沌の両性質を自覚したディケイドの新たな役割は、世界のバランサー(制御する者)だったといえます。言い換えると仮面ライダーの世界が繋がり、混沌が肥大化した場合の監視者です。平成2期でディケイドが登場したしたのは「平成1期」や「昭和ライダー」、「スーパー戦隊」が交錯した時にのみであり、2つの世界を巻き込き込みつつも、世界の秩序が保たれていた財団Xとの戦いに登場しなかったことがその裏付けとなります。

さらに『仮面ライダージオウ』においては、バランサーとしての機能は更に強化されており(ベルトもアップデートされていた)、混沌化した世界を自らの意志によって破壊出来る力が示唆されました。この時点で、ディケイドの力は失われることもない、「デウス・エクス・マキナ(解決困難な局面に絶対的な力が現れ、混乱を解決に導き、物語を収束させる演出法の意)」の領域へ上り詰めています。

また、『仮面ライダー大戦』ではディケイドの旅が「死に場所探し」であることも言及されました。しかし、秩序と混沌のせめぎ合いに終わりはありません。そのバランサーであるディケイドが「死を迎える」=「役目を終える」時が来るとすれば、それは後継者にバトンを渡した時でしょう。

門矢士の旅はなぜ終わったのか?

ここにきてようやく「RIDER TIME」の話題です。(すみません。)『ディケイド館』と『7人のジオウ!』ではオーマジオウによって極度に「混沌」に陥った世界が舞台になっています。門矢士はオーマジオウを倒し、世界を混沌による消滅から救うという役回りで登場しました。

しかし、2作品ともディケイドはオーマジオウの討伐に失敗します。『ディケイド館』ではクウガ、ディエンド、キバーラという「フェーズ1」の仲間全ての力を結集して敗北。『7人のジオウ!』ではコンプリートフォーム21という「フェーズ2」の10年間で獲得した力を全て投入した姿で敗北を喫しました。 この大敗はバランサーとしてのディケイドの存在否定に繋がっていきます。一度目の敗北の後、はやくも門矢士が消滅し始める様子が映し出されていました。

オーマジオウはそれ程までに強い。同時に、今作で常磐ソウゴは再びその力と繋がる存在になりました。士は敗北の直後、ソウゴに「セイバーライドウォッチ」を託します。それははディケイドからジオウへの「これからの仮面ライダーを記録し、秩序と混沌を制御する役割」の継承を意味する行為です。そして、ジオウは「ディケイド」と「セイバー」の力でオーマジオウを撃退、士が成し得なかった「秩序化(=混沌のリセット)」を見事成し遂げるのです。「ディケイドとオーマジオウ」という「秩序と混沌」の両義性を持つ2大ライダーを超越した常盤ソウゴ。彼の姿を前に、士は安堵の表情で消滅するのでした。最初の消滅では夏海に「過去」仮面ライダーの力を託し、今回はソウゴに「未来(現在)」仮面ライダーの力を託すという対比も興味深いものがあります。 

以上から、今回の士の旅が終わった理由は、絶対的にまで強大化したディケイドの力が否定され、自身を超越する存在(常磐ソウゴ)への継承を果たせたからだと考察します。『仮面ライダージオウ』本編では士の力は揺るぎなく、ソウゴはジオウの力を放棄して終わったため、このタイミングでの継承となったのです。

しかし、いつまた「仮面ライダーディケイド」が新たな役割を持って現れるかは誰にもわかりません。それは遠くない未来な気がします。

「時は渦巻いている。いつかまた会うだろう。我が魔王にも、門矢士にも」

『7人のジオウ!』最終話よりウォズの台詞