もんし録

mons&hero 特撮について書きます

【仮面ライダー生誕50周年】ヒーロー像の系譜(2000ー2003)

平成仮面ライダー1期(2000~2003)

仮面ライダーの相対化

平成仮面ライダーのヒーロー像が一口に語れないことは言うまでもない。それぞれの作品が別々の価値観を提示し続けた20年間であったとも表現することができる。

平成ライダーの初頭は「仮面ライダー」というヒーロー像を相対化し、捉え返した時代であった。もはや栄光の7人ライダーのような、私を捨て去り、正義の化身となって世界を守る戦いに全てをコミットするヒーロー像は見られず、「私」がある人間であることを前提に、その内面性が焦点となっている。

そして、「仮面ライダー=ヒーロー=正義」の図式が尽く崩されていく。

暴力の否定

まず、クウガ』では怪人を暴力で倒す正当性が否定された。守るための戦いであっても、暴力という手段はあってはならないものとして扱われる。

 『クウガ』において提示される新世代のヒーロー像は五代雄介の内面そのものである。

それは、”いつでも誰かの笑顔のために頑張れる”というものだ。

”いつも僕らを守ってくれる”とはニュアンスが異なり、正義の化身ではない。

「頑張れる」というと簡単だが、五代は究極の自己犠牲(「私」の犠牲)の人だ。五代の犠牲とは冒険に行けなかったり、人間の肉体でなくなったりと様々だが、根幹は嫌なこと=「暴力」をやらなければならないことである。それをする度に、彼の「私」の象徴である笑顔は失われていく。しかし、五代は「何故自分がこんなことを?」という方向では絶対に悩まない。誰かの笑顔のために自分に出来ることならやる、やりたい。その行動規範もまた、五代の「私」なのである。それは劇中でも「何でだよってくらい良い奴」と評されるほど綺麗事であり、それが出来る大人は少ない。だからこそ、目指すべき人間像、ヒーロー像なのだ。

また、『クウガ』において、グロンギは絶対悪で倒すべき敵だが、だからといって怪人をやっつけてくれるクウガが正義というわけではない。そこに介在する暴力は否定されるべき行いなのである。クウガはヒーローかもしれないが、存在してはいけない。誰かの笑顔のために頑張る精神性こそが讃えられるべきものなのだ。この視点は昭和ライダーやネオライダーたちのヒーロー像にはない。仮面ライダーがヒーローとしての「正義の力」という概念を失ったタイミングと言えるかもしれない。

そこに、「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」や「正義の心を持つ「私」を内在した一人の若者」は成立しないのである。

 

一つの理想像の消失

『アギト』以降、仮面ライダーは複数登場することが当たり前となり、ヒーロー像も多様なものとなった。そこでは当然クウガ』のような一つの理想像は存在しえないものとなる。

例えば、G3は初めて職業として活動を行う仮面ライダーであった。氷川誠は警察官である。正義感の強い優れた警察官であるが、仮面ライダーを行うことには給与が発生し、生活((私))が保証されている。そこには従来のライダーが強いられた犠牲はなく、責任がある。命懸けで責任を全うするG3、そこにも新たなヒーロー像がある。

ギルスは逆境から這い上がり、自己(新たな「私」)を模索する仮面ライダーだった。力に苦悩し続け、自分と身の回りのために戦っていたが、そこにも確かなヒーロー像がある。

そして、アギト/津上翔一はそんな自己と他者(アギトと人間)の属性を包括し、皆の居場所を守る仮面ライダーだった。

一つの正義、一つの理想が失われたとき、ヒーロー像は個人(私)に宿り、どれもが両立して越境できるものとして扱われる。

仮面ライダー≠ヒーローの時代

龍騎』では仮面ライダーとヒーローをイコールで結ぶ前提すら揺るがされた。

ミラーライダーたちはバトルロイヤルを通し、他者の命を犠牲にして、自分の願い(私)を叶えようとしていた。自分のためだけに戦う仮面ライダーはヒーローと言えるのだろうか。そんな疑問が沸き起こる中で、人を守るために戦い、ライダー同士の戦いを止めようとした龍騎/城戸真司はヒーローらしく見える。しかし、『龍騎』は城戸真司を正義のヒーローの理想像として定義することはない。

この戦いに正義はない。あるのは純粋な願いだけである。

エゴ(私)を叶えるべく戦う中で、龍騎、ナイト、ゾルダ、王蛇たちは同列の存在として並ぶ。その意味で「人間は皆ライダー」であり、「特定のヒーロー像を提示する」行為は幻想であり、何をヒーローだと選択するかはこちらに委ねられた。

ファイズ』では、仮面ライダーのツール化が進み、特定の個人に紐づくものですらなくなる。ファイズ、カイザ、デルタは何人もの変身者が存在する。仮面ライダーは単なる「力」でしかなく、その力には「アギトの力」や『龍騎』同様、善も悪もない。ファイズが救世主と呼ばれたのは仮面ライダーだからではないのだ。

ヒーローがいるとすればそれは”仮面ライダーだから”ではないし、正義が不在の中で絶対的なヒーロー像は幻想である。