もんし録

mons&hero 特撮について書きます

【仮面ライダー50周年記念】ヒーロー像の系譜(2009ー2018)

平成仮面ライダー2期(2009~2010)

2010年代にヒーローは成り立つか

『ディケイド』が終わり『ダブル』から『ジオウ』までの作品は平成2期と呼ばれる。

平成1期では、仮面ライダーのヒーロー像を相対化し、「仮面ライダー=ヒーロー=正義」の図式を崩した。また、後年ではヒーロー像を発展、多岐化させることで仮面ライダーの称号を再びヒーローとして再生させる動きもみられた。

平成2期は、仮面ライダーをこの時代(2010年代)のヒーローとして、平成1期の時代よりも意識的に成立させようとする。

ミニマムな領域の仮面ライダー

『ダブル』では『電王』で言及した「ミニマムな範囲でこそ成立するヒーロー像」の発展を見ることができる。コミットするフィールドを手の届く自分の街・「風都」に限定し、皆を守るヒーローを成立させている。そして「Nobody is perfect」という概念も重要だ。彼らは一人だけではダブルになることは出来ない。相棒の存在、そして彼らを「街の希望」として認めてくれる市民がいてこそ、仮面ライダーダブルというヒーローになることが出来るのだ。この補い合いで完成するヒーロー像は、その後の仮面ライダーにもよく見られる。

『オーズ』も「ミニマムな範囲こそ成立するヒーロー像」の典型である。映司が欲した世界のどこまでも届く手は、「皆と手を繋ぐこと」でこと手に入るものであると悟る。ダブル同様の一人のヒーローの不可能性も示しつつ、誰にも頼らず「私」を捨て続ける自己犠牲が必ずしも肯定されるものではないテーマも提示している。

『フォーゼ』も『ダブル』、『オーズ』の流れを汲んでいる。本作ではフィールドを高校にまで縮小し、仲間との絆で「仮面ライダー」を再現せんとした。だからこそ、仮面ライダー部との関係をきずくことでフォーゼは新たな姿を獲得する。

震災後の仮面ライダー

震災後の仮面ライダーである点も『フォーゼ』のヒーロー像を語る上で欠かせない。涙ラインのないフォーゼが目指した「明るい仮面ライダー」は学園のヒーローとして、生徒たちに受け入れられる存在として活躍した。それは「天高生徒全員と友達になる」弦太郎/フォーゼの「私」が叶うことを表していた。

 

震災後のヒーロー像の提示は『ウィザード』以降、多くの仮面ライダーで見られる。劇中でも大きな災厄の後を生きる人々や仮面ライダーを描く作品も増えた。(『ウィザード』のサバトや、『ドライブ』のグローバルフリーズ、『エグゼイド』のゼロデイ、『ゼロワン』のデイブレイクなど。)

『ウィザード』ではウィザード/晴人のヒーロー像は、震災後が意識された「今を受け入れて前に進む」というものだった。絶望して立ち止まることなく、前に進み続ける姿勢はその後の仮面ライダーにも踏襲されるものになる。

『鎧武』でも鎧武/紘汰がライバル・戒斗から認められたのは「泣きながら進む」という心の強さだった。自然災害や大人、社会のシステムなどあらゆる理不尽の壁が何度も紘汰に立ちふさがった。しかし、紘汰は友を失っていたとしても前に進み、犠牲を諦めない茨の道を進み続けた。

「前に進む」ヒーロー像のモチーフは『ドライブ』にも見られる。トラウマで止まっていた心のエンジンを再起動させて走り出すことからドライブの物語はスタートする。また、ドライブ/泊進之介は警察官という職業倫理を持つ仮面ライダーでもある。そこに、力を行使する権限=命を守る責任を全うするヒーロー像の提示も見受けられた。

ヒーローであろうとするヒーロー

2010年代後半の平成2期作品では、「ヒーロー」が重要な意味を持つキーワードとして頻繁に用いられた。理想とするヒーロー像に自らの近づけようとする仮面ライダーたちの物語が描かれている。仮面ライダーとして戦うことが自己実現(「私」)を果たすことにも繋がっていく時代である。

 『ゴースト』では、ヒーローは「英雄」として表現された。その偉人たちのヒーロー像は、タケル/ゴーストのモットーでもある「命を燃やして生きる」。タケルは、自分の命を顧みず誰かを助け、その想いを未来に繋いだ。そしてタケルは自身が憧れる英雄と肩を並べる英雄となったのである。

『エグゼイド』の中で宝生永夢は過去の経験から、「患者の笑顔を取り戻す医者」こそがヒーローという価値観を持っている。それは彼の職業倫理にも繋がり、CRのドクターとして命を救う責任を果たそうとする姿が描かれた。

『ビルド』は平成2期の仮面ライダーを集約したようなヒーロー像であった。桐生戦兎がそうであるように「ヒーローはそれを認識する人々が創りあげる」存在であるという理念が作品の前提としてある。皆に希望を託されてこそ兵器ではなくヒーローになれるのだ。

理想を掲げて何が悪い!ラブ&ピースがこの現実でどれだけ弱く脆い言葉かなんて分かっている。それでも謳うんだ。愛と平和は俺がもたらすものじゃない。一人一人がその思いを胸に生きていける世界を創る・・・。そのために俺は戦う!

このように、ビルド/戦兎は一人のヒーローの限界も知っている。だからこそ、誰もが愛と平和を胸に生きていける世界を目指してにビルドは戦ったのだ。

『ジオウ』の場合、ヒーローは”王”という言葉で置き換えられた。常磐ソウゴ/ジオウが目指す「最高最善の魔王」が作中にとっての理想のヒーロー像だ。しかし、劇中で「最高最善の魔王」とは何たるか?が具体的に語られることはない。何故ならそれは誰にも分からないソウゴの未来であり、「瞬間瞬間を必死に生きる」姿こそが仮面ライダーだからである。

自分にとっての「在りたい姿(=理想のヒーロー像)」で在ろうとするために仮面ライダーを選ぶ。そんな「私」の自己認識・自己実現としての仮面ライダーが肯定される時代。それは直接、令和に繋がっていく。