もんし録

mons&hero 特撮について書きます

【仮面ライダー生誕50周年】ヒーロー像の変遷(1979ー1994)

仮面ライダーと「私」の物語(1979年~1994年)

「私的な物語」の芽生え

V3/風見志郎の家族は殺され、X/神敬介の父は自爆、ストロンガー/城茂の相棒・タックル/岬ユリコは2人の未来を提示した直後に絶命した。ライダーマン/結城丈二は「復讐」ではなく大義のために命を落として初めて仮面ライダーの認定を受けた。

このような「仮面ライダーは「私」的な要素を切り離さなければならない」というストイックさが緩んでいくのは1980年代を迎えたスカイライダーの終盤からのように思う。

スカイライダー/筑波洋は物語の終盤、生きているかもしれない両親を助けるために行動する。結局それは叶わないものの、仮面ライダーが私的なモチベーションを重視する展開は新鮮に写る。そして、『スーパー1』では、スーパー1/沖一也は「望み、望まれ」生まれた改造人間であり、ラストでは惑星開発という本来の夢に向かう。これもまた、仮面ライダー自己実現が許される転換であると言える。ただし、どちらの作品もその「私」的な物語が作中に横たわっているテーマとは言えない。『スーパー1』でさえ、縦軸として惑星開発の話が常に意識されているかといえば、そうでもないのが実態である。

BLACKを貫く「私」的な物語

「私」的な物語を抱えつつ戦い続ける仮面ライダーを描いたのは『BLACK』からだろう。

『BLACK』は「仮面ライダーになってから敵組織を滅ぼすまで」だった仮面ライダーの物語に新たな線を引いた。それはBLACK/南光太郎が「親友を救おうとする」私的な物語の縦軸である。光太郎にとって、宿敵シャドームーンを倒してしまうことはバッドエンドなのだ。彼の苦悩はドラマになり、仮面ライダーのヒーロー像を純粋な「憧れ」だけではなく、等身大の「共感」を抱かせるかたちへと変えた。勿論、このヒーロー像は1987年の『BLACK』が生み出したものでも何でもない。東映ヒーローに限定しても、戦隊では『超新星フラッシュマン』(1986年)、『光戦隊マスクマン』(1987年)が「私的な物語」の縦軸を展開しており、メタルヒーローでは『時空戦士スピルバン』(1986年)や『超人機メタルダー』(1987年)にそのムードを感じる。この直後に「友よ。君たちはなぜ悪魔に魂を売ったのか?」の『超獣戦隊ライブマン』(1988年)につながるし、その先には『鳥人戦隊ジェットマン』(1991年)が待っている。

「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」から、「正義の力を持つ「私」を内在した一人の若者」へヒーローのあり方は移り変わっていく。一人の若者が正義の力を持てるのか?そもそも正義とはなんぞや?という問題提起が発生しないギリギリの時代のヒーロー像も言えるかもしれない。ただ、『RX』になり、シャドームーンの縦軸がなくなると、フォームチェンジや武装の新しさは加えつつも、ヒーロー像としては「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」立ち返っている。

ネオライダーと「私」の物語

この観点でみると、『真』(1992年)のシン/風祭真は世界や正義のためではなく、純粋な「私」で戦う最初の仮面ライダーであった。劇中でシンは振りかかる火の粉を払うためか、恋人の願いを叶えるためにしか戦っていない。そして、ラストでは父や恋人を殺されながらも「私」の象徴ともいえる”子ども”が残る。ポスト・BLACKやポスト・ジェットマンの発展とも言えるが、シンが所謂ヒーローとして描かれることはなく、仮面ライダーの称号(力)が正義のヒーローと必ずしも結びつかない可能性が初めて提示されている。

その点『ZO』、『J』は子ども向けということもあり、バランスがとられている。基本的にはRX同様「「私」を捨てた超然的な正義の象徴」にも見えるが、関係値がある一人の少年少女の救出を中心に据えることによって、「私」があるヒーロー像が並立している。

そして、テレビ放送はなく90年代が終わった。

2000年、『クウガ』から平成仮面ライダーの時代に突入する。

仮面ライダーのヒーロー像は大きく揺れ動いていく。