【仮面ライダー生誕50周年】ヒーロー像の変遷(1971~1975)
栄光の7人ライダー(1971~1975)
仮面ライダーは孤独なヒーローか?
「仮面ライダーは異形の哀しみを背負った孤独なヒーローである」
哀しみと孤独。これは昭和ライダーが語られるとき、よくフォーカスされるテーマだ。彼らは改造人間ゆえの孤独を背負っており、怒りと哀しみを胸に「人間の自由」のために悪と戦ってくれる。そんな哀愁が魅力である、という言説だ。何も間違いはない。私も「ロンリー仮面ライダー」を聴きながら、悦に入るファンの一人だろうか。
しかし、実態は本当にそうだろうか。
昭和の仮面ライダーの本編を見ると、「異形の哀しみ」や「孤独」というキーワードが全てではないことは一目瞭然である。勿論それを感じるエピソードはあるものの、全体として見れば「明るく楽しいアクション活劇」が毎週描かれているのだ。逆に言えば、おやっさんやヒロインたち理解者や「少年仮面ライダー隊」のようなファンクラブまでも存在しており、真に孤独と感じる場面はもはや少ない。それらを踏まえれば、昭和ライダーでプレゼンされていたヒーロー像は、「僕らを守ってくれる頼もしい正義のヒーロー」がベースにあり、「哀しみ」や「孤独」は個性でありエッセンスだ。
当たり前な結論かもしれないが、ここは押さえておきたい。
なぜなら、「僕らを守ってくれる頼もしい正義のヒーロー」は今はもう大手を振って描けないものとなり、この時代ならではのものだからだ。
70年代「正義のヒーロー」に求められたもの
「僕らを守ってくれる頼もしい正義のヒーロー」。あえて「正義」という言葉を使った。それは、この時代の特徴を示す意味だけではなく、少なくとも昭和ライダーの作中での正義と悪はハッキリと分かれているからである。「ショッカーを倒すことは正しいことである」理論で、それを行ってくれる仮面ライダーが正義で怪人は悪である二項対立は揺るがない。怪人(改造人間)は被害者であることは前提にしつつも、怪人となってしまえば悪であり、倒すべき敵なのである。そこにヒーローが暴力を使うことに対する疑問視は見られない。この時代誰かのために戦うことは正しい行いなのだ。
しかし、皆の憧れの象徴となり、正義を背負って戦うヒーローには究極の自己犠牲が求められる。
ライダーマン以外の栄光の7人ライダーは「私」を完全に否定された存在と言える。天涯孤独か両親が殺される展開から始まり、異性と交わることもなく、戦いが終われば、次の戦いに向け仲間たちから去っていく。当然、社会的な自己実現を叶えることもなく、共に戦う仲間と信頼関係を築く以外の人間的行いは許されていない。しかも戦いが終って仲間との新たな人生を歩むことも出来ず、そのコミュニティからは姿を消してしまうのだ。
それが特に顕著と言えるのは「復讐」という「私」的なモチベーションですら御法度となっている点だ。
最初にはそれがあっても、捨てるべき価値観として後輩に指導するシーンすらある。「正義」の権化となるには「私」的な存在であってはいけない。70年代のストイックなヒーロー像が読み取れる。だからこそ、私的な物語で動くライダーマンは異色であり、ストーリーの縦軸を発生させることが出来る存在なのだ。ただ、ライダーマンの「私」の性質も、最期には否定されるものとなる。また、社会性(私的な物語)がゼロ状態からスタートしたアマゾンが唯一、言語を習得し、「社会化」を果たしているのは面白い。