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「ゼロワン Others 仮面ライダー滅亡迅雷」(感想・考察)

これは『ゼロワン Others 仮面ライダー滅亡迅雷』の感想・考察記事です。ネタバレ有りですのでお気をつけください。

目次

 

『ゼロワン』、新たな問題提起

「人間であれ、ヒューマギアであれ、心の自由は尊重されなくてはならない。互いの垣根を越えて自由のために戦う限り、お前たちは仮面ライダーだ」

これが『仮面ライダーゼロワン』が本編でたどり着いた結論だった。人間にもヒューマギアにも悪意を乗り越えうる「心」があることを前提に、その自由を守る存在こそが仮面ライダーである、と。テロリストであった滅亡迅雷も例外ではなく、自由な意思のもと、それぞれの場所で活躍を始める姿が描かれていた。このラストの実現は、飛電或人が自身の悪意を乗り越え、イズを破壊した滅を赦した行動に紐づいている。2人の最終決戦はお互いに巣食うアークを破壊するための戦いだった。

つまり、或人の「赦し」はアークの存在をもって成り立っていたと言い換えられてしまう。大きな悪意を持つものに手段を与えるアークというシステムを倒すべき敵とし、悪意自体はそれを持つが乗り越えるという構造。それによってゼロワンのライダーたちはアークの登場以降、悪意を持つ者を直接駆逐することなく、戦いを繰り広げられたのである。劇場版『REAL×TIME』も同様であり、倒されたのは本人たちではなく、アークがもたらした手段によって現出した仮想の姿であった。

本作の敵はそんなどこか都合の良いアークの存在をあっさりと否定する。そして、迷いを生み心によって乗り越えられてしまう「悪意」よりも、迷いのない「正義」こそが永遠の争い(戦争)の引き金に相応しいとし、人間の正義の心を駆り立てようと企てる。

間違いなくこれまでの『ゼロワン』の理論が通じない敵にどう立ち向かうのか?

正義と暴力、赦しという呪い

この問題に最も悩みの姿勢を見せたのは滅であった。或人から「赦し」をうけ、「人間は滅ぼすべきではない」とラーニングした彼はアークとは無関係で人間の姿をした敵の対処に迷う。そこで不破からこう問われる。

暴力に訴えるのは、何か信念があるのか?何か理由があるのではないか、と。

対して滅は不破に問う。

俺たちが大切な者に刃を向けたらお前は赦せるのか?

それに不破は「赦すわけねえだろ、ぶっ潰す」と答える。

このやり取りで「信念や理由(正義)があれば暴力は許されるのか?」の問いにはNOが突きつけられる。許されるどころか、それが新たな争いの火種になるという答えで、これは『クウガ』とも重なるメッセージだ。

しかしこのやり取りは同時に、滅にとって或人から受けた「赦しの呪い」を解き放ってしまう。そのことが、仮面ライダー滅亡迅雷の聖戦に繋がっていく。

聖戦のラスト

仮面ライダー滅亡迅雷は「ヒューマギアの心の自由」を守ることに一点特化したバーサーカーのような存在である。リオンの命も簡単に奪ってしまった。そして驚くことに滅亡迅雷4人のボディも破壊してしまったのである。自由を守るために暴力を行使ししなけらばならない時、それは同時に彼らにとって自分たちが赦されざる者となることを示している。だからこそ自らを「extinct(絶滅)」させる。私はこれにも『仮面ライダークウガ』の当初の結末案を重ねた。アルティメットフォームとなった五代がダグバを殺した後に戦いで命を落してしまうラストだ。暴力を振うるという罪を命をもって償う、滅亡迅雷はそれをやった。

最後の咆哮が何を意味するのか。そして残った仮面ライダー滅亡迅雷に不破と刃がどう向き合うのか?続編に期待!