もんし録

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特撮ファンによる『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想・考察

まえがき

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観た。

初見のインパクトが思考や考察と混じり合わないうちに何か書き残しておきたいという主旨の記事です。ネタバレを含む内容ですので、未見の方はお控えください。

タイトルの「特撮ファンによる」の表現は、「特撮作品と比較して考察をした」ではなく、「この感想になったのは特撮ファンだから」の意味合いなのでそこはご容赦お願いします。

感想と考察

「自己(わたし)と他者(あなた)」、「個人(わたし)と全体(せかい)」、「人と神」、「子供と大人」、「子と親」、「生と死」、「魂と体」、「罪と罰(償い)」、「暴力と対話」、「交流と断絶」、「破壊と創造」、「恩人と仇」、「現実と虚構」、「秩序と混沌」、「希望と絶望」、「コンテニューとリセット」、「方舟と戦艦」。

カッコ書きでそれっぽく書いたが、どれも二項対立でなく、アンビバレントな分かちがたい存在として作品に横たわっている。アンビバレントなもの≒矛盾を受け入れて進むことを是とする作品は他にいくらでもあるが、「自己(わたし)と他者(あなた)」の「暴力と対話」や「交流と断絶」を長年やってきたエヴァだからこそ描けることがあったように思う。

「子と親」の決着がまさにそう。”親殺し”の通過儀礼で成長を描くのは王道というより映画構造の基本形の一つとも言え、それこそ「仮面ライダー」の考察をしようと思えば最初に目にするステップのような気もする。そんな基本形を当たり前と踏まえつつ、『シン・エヴァ』はシンジとゲンドウの対峙は重厚な意味合いを感じた。今作で結果的にシンジは対話を通して、絶対的な父親、大人であったゲンドウを「個人の物語」へ相対化し、対等な関係へと変える。暴力でなく、対話による和解は加持も示した”親殺し”とは異なる価値観だ。そこに至るまでの過程、暴力から対話に移行するまでの段階のシンジの記憶を辿る概念的な戦いの中で、目を引く演出があった。

初号機と第13号機のバトルの街や家のCGに違和感を覚えると、それはミニチュアセットであり、空はホリゾントだった。ミサトの家は東宝撮影所内のセットであった。さらに撮影道具が並び、エヴァたちの着ぐるみまで保管されていた。これらを見たとき、私の時の感覚が一気に2012年に戻った。庵野秀明館長による特撮博物館のあの異常に力の入った展示を思い出したのだ。私もそのミニチュアセットの撮影スポットでスペシウム光線のポーズを撮ったし、『妖星ゴラス』などの東宝特撮映画をちゃんと観ようと心に決めた。「特撮博物館」では「大いなる”虚構”を成すための”現実”の営み(技術)」が一つ一つ具体的に語られていた。それはミサトやヴィレの「奇跡を人の力で起こそうとする」営みにも重なる。また、特撮文化の保存にかける想いは、加持の「種の保存」計画にも通ずる部分があった。

そして、それらの演出が父と子の対峙で用いられることにも意味を感じた。2012年「特撮博物館」、2013年「日本特撮に関する調査報告書」で特撮を語り継承する動きが活発化し、2016年には『シン・ゴジラ』が送り出された。今年2021年には『シン・ウルトラマン』がある。どちらも庵野秀明監督による円谷英二監督作品のリブート映画だ。強引に言えば、ここに作品を介して「特撮の神様」(=父)である円谷英二監督と「特撮ファン」(=子)である庵野秀明監督との”出会い直し”があったのではないかと思う(特撮ファンは「日本特撮に関する調査報告書」での庵野監督の肩書き)。父(ゴジラウルトラマンも含んで)との出会い直しを作品を創ることで行い、自らが父の立場で子である「エヴァンゲリオン」との出会い直しを行った。それがゲンドウとシンジ、シンジとゲンドウの関係にリンクして見える。2人親子が視線を合わせたように、「エヴァンゲリオン」は『シン・エヴァンゲリオン』を以て、「ゴジラ」、「ウルトラマン」に”対等な”神話に終結できたのではないかと思う。方舟に乗せる文化としての帰結。それゆえの終劇であり、「シンエヴァ」への8(9)年間は必須であったとも感じた。

以上をまとめて「エヴァ」は「ゴジラ」で「ウルトラ」なのだというつもりは勿論ない(物語構造で言えばリンク出来る価値観はあると思う)。あと付け加えるなら、『シンエヴァ』は「虚構(≒物語、アニメ、特撮、エヴァンゲリオン)」と「さようなら」しつつも、否定をする作品ではなかったと思う。「(大いなる)虚構」を信じる価値は随所に示されていたし、ソックリさんの絵本のシーンにもそれは顕れている。それに『シンエヴァ』での「さようなら」は希望的な意味もあるのだから。